「色眼鏡」を外す
人間関係の悩みの9割は、これで消える
私たちは、実に複雑な人間関係に
取り巻かれています。
心にのしかかる不安や悩み、
心配事の多くは、人間関係にからんだもの
といっていいかもしれません。
仕事の、地域社会の、学校の、
友人の、家族の、きょうだいの、
親族の・・・、まさに、
重層的な人間関係の中で
人は生きています。
ときにそれがもつれてしまい、
心を覆って不安や悩み、
心配事につながっています。
「どうも、あの上司とはソリが合わない。
これじゃあ、いくらがんばったって、
この先どうなることやら・・・」
「いい人づらしているけれど、
どうもあいつは信用できないな」
「隣の奥さんったら、なんか私の事を
なんか私のことを避けているみたい・・」
いったん、
マイナスの思いにとらわれてしまうと、
なかなかそれを払拭できないのが人間です。
それどころか、負の感情はますます濃度が
高まっていくのが一般的な流れだと
いっていいでしょう。
ソリが合わない上司は
つきあっていられない上司に、
信用できないあいつは
人間性を疑うあいつに、
(私を)避けている隣の奥さんは
(私を)目の敵にしている隣の奥さんに・・
といった具合に、
“悪しき変貌”を遂げていくことになるのです。
しかし、関係のもつれのもとをたどると、
きっかけはほとんどが「些細な事」なのです。
会議で上司とちょっと意見が対立した、
自分との約束を友人がうっかり忘れた、
こっちが挨拶したのに
きちんと挨拶を返してこなかった・・・。
どれも些細なことですし、その時の感情は
相手の一面から受けたものでしかありません。
しかし、そこで「色眼鏡」をかけてしまう。
そして先入観を持ってしまうのです。
これほどアテにならない物はないのに、
根強く心に棲みついてしまうのが、
先入観のいちばんやっかいなところです。
新しい仕事の関係者と初めて会うときに、
相手について情報が周りから入ってきます。
「いやあ、あの人は気むずかしい人と評判の人だよ。
そうか、明日会うことになってるんだ。
そりゃあ、大変だ。まあ、なんとかうまくやりなよ。」
もういけません。
気難しいという相手の「人物像」が
そこで確定してしまいます。
実際の面談がどんなものになるかは
容易に想像がつくところでしょう。
言葉数は少なく、神経質そうだけれど、
ほんとうは懐の広い人であっても、
その「真」の姿を見抜くことは
ほとんど不可能。
先入観に縛られて、
”腫れ物に触る”ような対応に終始し、
相手の不興を買ってしまう、
といったことになります。
禅では
「色眼鏡をかけない」
という言い方をします。
先入観のみで人を判断することを
強く戒めています。
「情報」だけで、あるいは、
相手の一面だけを見て抱いた嫌な感情、
否定的な思いを持って、
全人間性を決めつけてしまったら、
その人を見誤ることは必定です。
まず、自分から色眼鏡を外すことです。
そのうえで、次の禅語を
胸に刻んで下さい。
「一切衆生、悉く仏性有り」
(いっさいしょうじゅう、
ことごとくぶっしょうあり)
あらゆるものには、
仏性という美しい心が備わっている、
という意味です。
「自分が接したのは相手のほんの一面に過ぎない。
今度は相手の中の”仏性”を見つけよう」
禅語が教えている。
誰にも仏性(やさしさや思いやり、
あたたかさや包容力・・)がある、
ということを信じ、
そこを見ようとする姿勢でいたら、
必ず、胸に響いてくるものが見つかるはずです。
色眼鏡を外した透徹したまなざしなら、
ふとした瞬間に相手が垣間見せる仏性
(真の姿)を見逃すことはありません。
相手の違った面が発見出来たら、
ソリが合わない上司は厳しいけれど
自分に目をかけてくれる上司に、
信用できない友人はおおらかで
愛すべきおっちょこちょいな友人に、
自分を遠ざけている隣の奥さんは
人見知りだけれど
控えめで心優しい隣の奥さんに、
「よき変貌」を遂げることになったりします。
人に対する好ましくないない感情や
ネガティブな評価の背景には、
実は色眼鏡をかけた自分がいるのだと
ということを知ってください。
それを外したら、見え方はガラリと
変わったものになるでしょう。
そして、その視線の先で相手の仏性が、
しだいにはっきりしたものになってくる。
そのとき、人との付き合いで感じていた
煩わしさや面倒くささも、
人間関係が原因だと思われた不安や悩み、
心配事も、「あれっ、どこかに行ってしまった」
ということになるのです。
以上となります。
色眼鏡をついかけてしまう自分がいます。
すぐに取り払う努力をしないといけませんね。
それでは。
次回をお楽しみに。
著書名:心配事の9割は起こらない
減らす、手放す、忘れる、-禅の教え
著者名:枡野 俊明
(曹洞宗徳雄山建功寺住職)