心配事の9割は起こらない。減らす、手放す、忘れる-禅の教え 第1回                

 

みなさん、こんにちわ

いつもビジネス内容の本を多く
紹介していますが

たまには心に注目した
本もいいのではないかと思い
ご紹介することにしました。

それではどうぞ。

 

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「いま」に集中する
「自分を大切にする」とは、こういうこと

 

 

過去の出来事を思い出してはクヨクヨしたり、
落ち込んだりする人がいます。

過去に縛られている、
といっていいでしょう。


禅には、「一息に生きる」
という言葉があります。

文字通り、ひと呼吸するその瞬間、
瞬間を一生懸命に、丁寧に生きなさい、
ということです。

やはり、仏教でいう
「三世に生きる」も同じ意味ですね。

三世というのは
「過去」「現在」「未来」ののこと。

人はその三世のつながりの中で生きていますが、
現在を生きているとき過去はすでに死に、

その現在もたちまち過去となって未来に生まれ、
それが現在となるのです。

 

このような、生まれて死に、
死んでは生まれる、という生死の繰り返しが
生きるということだと、この言葉は教えています。

言葉を換えていえば、
死んだ過去のことを思い返してもしかたがないし、

まだ来ない未来の事はそこに生まれてから
考えるしかない、ということでしょう。

 

つまり、私たちには
「いま」をどう生きるかしかないのです。

ところが、「過去への思いやみがたく、
未来を慮ることしばしば」というのが
人間ですから困ったことになるのです。


こんな川柳があります。

「欠け椀も もとは吉野の 桜なり」

いまでこそ、このようなみすぼらしい
欠けた椀の姿に身をやつしているが、

もとをただせば吉野の山にみごとに咲き誇り、
大勢の人たちに「おぉ、なんと美しい!」と
感嘆の声を上げさせた堂々たる一本桜だったのだ、
というわけです。

これは過去の栄光、栄誉が現在を生きる
「よりどころ」になっている姿です。

 

この「吉野桜」ばかりではありません。

なにかにつけて輝かしい過去を持ち出す人は、
決して少なくないような気がするのです。


「私はこんな大きな仕事をしたんだ」
「あのプロジェクトを成功させたのは私なんだ」


もちろん結果を出したときに
心から喜ぶのは大事なことです。

勝利の美酒に酔うのもいいでしょう。

しかし、いつまでもそれを引きずるのは
いかがなものでしょうか。

ちょっと周囲に目を転じてみてください。

「また、あの人の”おはこ”が始まったよ。
うんざりするね。」

そんな声が聞こえてきませんか。

 

何度も繰り返される過去の栄光物語の長広舌は、
はっきりいって聞き苦しいものです。

語っている姿だって見苦しいものと
映るのではないでしょうか。

周囲の反応は措いたとしても、
自分自身がみじめにならないか?
と思うのです。


過去にいつまでもこだわっていることは、
そのまま、いまの生き方に対する自信のなさを
表明していることです。

そこに不安や悩み、心配事が
心に入り込む隙が生まれます。

もっと言えば、
現在の自分を蔑ろにしていることにも等しい、
とはいえないでしょうか。

 

私たちには「いま」をどう生きるしかない
ということをあらためて
しっかりと胸に刻んでください。

「いまはもう、所詮、欠け椀(閑職・・・・)
の身だからなぁ」

と嘆いたら、みじめさが増幅されるだけです。


欠け椀だって、人の気持ちまであたたかく
してくれる旨い味噌汁の器になることができるのです。

「よし、欠け椀としていまを存分に生きてやる!」

一息に生きるとはそういうことだ、
私は思います。

 

 


 

今回は
以上となります。

それではまた次回。

 

 

 

著書名:心配事の9割は起こらない
減らす、手放す、忘れる、-禅の教え

著者名:枡野 俊明
(曹洞宗徳雄山建功寺住職)