こんにちわ
次回からの続きです。
私的にはかなり
興味深い書籍となっています。
それではどうぞ!
トラウマは存在しない
青年:そこまで、強くおっしゃるのなら、
しっかり説明していただきましょう。
そもそも、「原因論」と「目的論」の
違いとはどういうことですか?
哲人:たとえば、
あなたが風邪で高熱を出して
医者に診てもらったとします。
そして医者が「あなたが風邪をひいたのは、
昨日薄着をして出かけたからです。」と、
風邪を引いた理由を教えてくれたとしましょう。
さて、あなたはこれで満足できますか?
青年:できるはずもないでしょう。
理由が薄着のせいであろうと、
雨に降られたせいであろうと、
そんなことはどうでもいい。
問題は、今高熱に苦しめられているという
事実であり、症状です。
医者であるならば、ちゃんと薬を処方するなり
注射を打つなり、なにかしらの専門的処置を
とって、治療してもらわなければなりません。
哲人:ところが原因論に立脚する人々、
たとえば一般的なカウンセラーや精神科医は、
ただ「あなたが苦しんでいるのは、
過去のここに原因がある」と指摘するだけ、
また「だからあなたは悪くないのだ」と
慰めるだけで終わってしまいます。
いわゆるトラウマの議論などは、
原因論の典型です。
青年:ちょっと待ってください!
つまり先生は、あなたはトラウマの存在を
否定されるのですか?
哲人:断固として否定します。
青年:なんと!先生は、いやアドラーは、
心理学の大家なのでしょう?
哲人:アドラー心理学では、
トラウマを明確に否定しています。
ここは非常に新しく、画期的なところです。
たしかにフロイト的なトラウマの議論は、
興味深いものでしょう。
心に負った傷(トラウマ)が、
現在の不幸を引き起こしていると考える。
人生を大きな「物語」としてとらえたとき、
その因果律のわかりやすさ、
ドラマチックな展開には心をとらえて
放さない魅力もあります。
しかし、アドラーはトラウマの議論を
否定するなかで、こう語っています。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも
失敗の原因でもない。われわれは自分の経験による
ショック―、
いわゆるトラウマ ― に苦しむのではなく、
経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、
経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。
青年:目的にかなうものを見つけ出す?
哲人:そのとおりです。
アドラーが「経験それ自体」ではなく、
「経験に与える意味」によって自らを決定する、
と語っているところに注目してください。
たとえば大きな災害に見舞われたとか、
幼いころに虐待を受けたといった出来事が、
人間形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。
影響は強くあります。
しかし、大切なのは、それによってなにかが
決定されるわけではない、ということです。
われわれは過去の経験に
「どのような意味を与えるか」によって、
自らの生を決定している。
人生とはだれかに与えられるものではなく、
自ら選択するものであり、
自分がどう生きるかを選ぶのは
自分なのです。
青年:じゃあ、先生は私の友人が好きこのんで
自室に閉じこもっているとでも?
自ら閉じこもることを選んだとでも?
冗談じゃありません。
自分で選んだのではなく、
選ばされたのです。
今の自分を、選択せざるを
えなかったのです!
哲人:違います。
仮にご友人が「自分は両親に虐待を受けたから、
社会に適合できないのだ」と考えているのだとすれば
それは彼の中にそう考えたい「目的」があるのです。
青年:どんな目的です?
哲人:直近のものとしては「外にでない」
という目的があるでしょう。
外に出ないために、
不安や恐怖を作り出している。
青年:どうして外に出たくないのですか?
問題はそこでしょう!
哲人:では、あなたが
親だった場合を考えてください。
もしも自分の子供が部屋に引きこもっていたら、
あなたはどう思いますか?
青年:それはもちろん心配しますよ。
どうすれば社会復帰してくれるのか。
どうすれば元気な姿を取り戻してくれるのか、
そして、自分の子育ては間違っていたのか。
真剣に思い悩むだろうし、
社会復帰に向けてありとあらゆる
努力を試みるでしょう。
哲人:問題はそこです。
青年:どこです?
哲人:外に出ることなく、
ずっと自宅に引きこもっていれば、
親が心配する。
親の注目を一身に集めることができる。
まるで腫れ物に触るように、
丁重に扱ってくれる。
他方、家から一歩でも外に出てしまうと、
誰からも注目されない「その他大勢」に
なってしまいます。
見知らぬ人々に囲まれ、凡庸なるわたし、
あるいは他者より見劣りした私になってしまう。
そして誰も私を大切に扱ってくれなくなる。
・・・・・・、これなどは、
引きこもりの人に良くある話です。
青年:じゃあ先生の理屈に従うなら、
わたしの友人は「目的」を成就しており、
いまの状態に満足している、
となるのですか?
哲人:不満はあるでしょうし、
幸福というわけにはいかないでしょう。
しかし、彼が「目的」に沿った行動を
とっていることは間違いありません。
彼に限った話ではなく、
われわれはみな、なにかしらの「目的」に
沿って生きている、それが目的論です。
青年:いやいや、到底納得できませんね。
そもそも私の友人は・・・・・。
哲人:まあ、このままご友人のお話を続けても
議論は平行線でしょう。
欠席裁判になるのはよくありません。
別の事例で考えましょう。
青年:では、こんな例はいかがですか?
ちょうど昨日経験した、私自身の話です。
哲人:ほう、お聞かせください。
以上となります。
次回は
「人は怒りを捏造する」です。
お楽しみに。
それでは失礼します。
著書名「嫌われる勇気 自己啓発の源流”アドラー”の教え」
著者名「岸見 一郎 古賀 史健」
出版元「ダイヤモンド社」