こんにちわ、まさやんです。
以前努めていた会社での
社長の言動や行動が
マーケティングとマネジメントの知識を
少々かじっていた私にとっては
行動や言動、
全てが見え透いているような感じを受け
経営コンサルタントの言われたままに
動く只の操り人形にしか見えませんでした。
職場の空気は相変わらず
冷え冷えとしており
スタッフ同士の足の引っ張り合いと
真面目で優秀なスタッフによる
突然の離職勧告の日々が日常となっております。
それでは続きをどうぞ。
■本物のリーダーシップを見つけるのは難しい
金貨にしろ、本当のリーダーシップにしろ
何か高い価値の付いているものは
表面をたくみに装った偽者ではないかと
疑がったほうがいい。
本物のリーダーシップを
見つけるのは困難で
見つけたとしても
相応の報酬を与えるのはさらに難しい。
地域社会にも、学校の世界にも、
ビジネスの世界にも
既存のルールやバイアス(偏見)が
あるからだ。
結果、私たちの元には
リーダーシップが足りず
偽者ばかりが溢れている。
私たちの宝箱には
愚者の金が詰まっていて
私たちのオフィスには
金メッキをした愚か者があふれている。
巧みな偽物は
一種の芸術で
そして芸術的なイミテーションは
オリジナルのような見た目や感触がある。
ひと目見ただけでは
たとえ訓練を積んだ人間でも
本物に見える。
そして子供や教養の足りない人にとっては
安っぽいイミテーションは
本物と見た目が同じというだけではなく
本物と同じ価値があるように見える。
いや、子供にとっては
偽物のほうが価値がある。
安いし。手に入りやすいし、
行きやすいからだ。
しかし、子供たちもすぐに
どれが本当のコインで
どれがおもちゃのコインか
お店でキャンディーと
交換できるのはどちらかを知るようになる。
私たちは今、改めて子供たちに歌って
聴かせなくてはならない。
「気をつけなさい、森へ遊びに行くときは
決して決してひとりではいっちゃだめ」と。
童謡や童話には
「見た目は当てにならない」
「人やものは見た目どおりとは限らない」と教え
注意を促すものが数多くある。
偽物の被害に遭わずに
子供時代を過ごせる人は一人もいない。
私たちはみな、騙され、幻滅し、
傷つき、そして裏切られる。
■偽者があふれる世界に生きる
私たちが払う高い代償
シェイクスピアは喜劇作品の中で
見た目で判断するというテーマを
たびたび取り上げている。
ゲームや人違いといった要素を使って
観客の気をそそり
自らが目にしたエリザベス朝時代の
イギリスの「仮面舞踏会」ぶりを揶揄する。
当時は仮面(顔を実際に覆うもの)を付けるのが
当たり前だった。
女性が社交の場で顔を出すのは
まれだった。
仮面を付けるのが
この時代の人々の生き方だった。
もちろん、同じ仮面舞踏会が
今のアメリカ社会にも見られる。
仮面舞踏会は舞台でも、
エグゼクティブ用の重役室でも行われている。
街の通りでオフィスで、
多くの人が傲慢やうぬぼれ
冷淡の仮面をかぶる。
誰もがついたてや役割、
うわべを取り繕った振る舞いの裏に隠れ
本当の気持ちを押さえ込み
波風を立たずに済ませる。
うわべの上品さというカーテンの裏に隠れ
自分を見失うリスクを抱え込む。
それでも、人間とは常に
仮面をかぶっているときよりも素顔の方が印象的で
好ましく、また興味深いものだ。
仮面を脱ぎ捨てて自分の考えや気持ちに
素直に従って行動するようになれば
人は大きな心の安定を手に入れ
ほかの人ともうまく交流できるようになる。
シェイクスピアの演劇のいくつかの
中核メッセージは
「仮面の裏では、人は過ちを犯す」だ。
つまり
誠実に心を開いたとき
人は始めて愚かさから解放される。
変装をやめることで
すべてはうまくいく。
~途中省略~
人生やリーダーシップのある部分が
真っ当であれば
ほかの部分や活動も
すべて真っ当に違いないと思い込み
それと矛盾する意見に怒りを見せる。
これは人の性質だ。
それでも、社会人はみな
職業という確かな土台の上に立っている。
何らかの仕事につくということは
何らかの決まりごとを自らに課し
業界のルールや規制に従い
システムの中でチェックを行い
バランスを取らなくてはならない
ということを意味する。
しかし、そのシステムや職業の枠の外にでれば
かなり深刻な偽者ということはありえる。
以上です。
リーダーシップを全く持っていない
人の上に立ってはいけない人間である
偽者経営者や偽者上司が
蔓延る昨今、
その原因をさらに探っていきます。
それではまた。
著者名:社長力を鍛えるリーダーシップの極意
著者名:ケン・シェルトン
翻訳者:高崎 拓哉
出版元:ダイレクト出版
より一部引用しました。